ウラロジ的歴史社会学って?
皆様こんにちは、ShimMyanです。「ウラロジ的歴史社会学」はウラロジ編集部に新たに加わったShimMyan発の企画で、ウラロジ的に仙台/宮城(時折東北一帯?)を歴史社会学的に取材したり、調べて書いたり、また、私自身が勝手に思ったことを発信していく予定です。
「歴史社会学」と、堅苦しく言っても、土地や人を取り巻く時間の流れを私の視点で切り取るのが趣旨です。なんかかっこいいんで「歴史社会学」とか使ってます(語彙力)。
以下が今回の本題です。それではどうぞ〜。
ことはじめ
今回はある都市伝説について考えようと思います。
それは、「かつて国分町に歌舞伎座があった」というものです。
▲「歌舞伎座」のイメージ/東京都中央区銀座4-12-15
国分町とはそう、仙台市在住でウラロジ仙台の読者の方なら知っているはずの場所ですが、念のため改めて説明しておきましょう。
国分町は東北一の繁華街で、キャバクラ、ガールズバー、風俗店やホストクラブなど、夜のお店がひしめく街です。夜の経済の中心地である国分町に、歌舞伎のような伝統芸能の場所があったと想像するのは難しいかもしれません。
▲こちらが国分町。
本職(?)社会学者のShimMyanがこのテーマについて紐解き、もしそれが真実であれば現在の場所を特定しようと思います!!!!
「てか、国分町ってどんな歴史をもってんの?」
まず、国分町の歴史を辿っていきましょう。こんなんは今の時代電子化された媒体でまとめられてるので、googleから行政やら何やらの情報を引っ張ります。
そもそも「国分町」とは、宮城県仙台市青葉区のある地域の地名です。1丁目〜3丁目まであります。googleMAPで見ていただければわかりますが、1丁目は歓楽街と言うよりビジネス街寄りです。
そして3丁目は仙台市役所などがあり、ここも歓楽街と言うテイストではないです。
いわゆる東北人が想像する国分町は実際2丁目の区画を指すと言っても過言ではありません。1、2、3丁目に満遍なく歓楽街的なお店が散らばってるかと思いきや、実際はほぼ2丁目にひしめき合っているのが現状です。
「国分町」と言う名前自体は伊達政宗が仙台に来る前に同地を統治していたとされる陸奥国宮城郡国分荘(宮城県仙台市)がルーツのようです。当時の日本語の発音は「こくぶんまち」「こっぷんまち」だったとか。ネットで調べた範囲だとこれ以上出てこないですね。
次に古い文献にあたりましょう。
資料探すぞ!の巻
きました!東北大学川内キャンパスです。川内キャンパスの図書館に行ってみます。郷土史関係も書庫などに多分に所蔵しています。ここから歌舞伎座があったとされる当時をうかがえる資料を探してみます。
すると、ありましためちゃくちゃ古い資料が!!!
すると、ありました!!!!!
仙臺の劇場という年表に「仙臺歌舞伎座」の開場が記されています。場所は「同右」という表記から「国分町」ということになります。大正7年なので、西暦だと1918年です。つまり、1918年には国分町に歌舞伎座が開場されていたということになります。
そして、次のような記載がありました。
国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。
「仙臺座」というのは今の南町通の方に先に作られた演劇場のことを指しています。「仙臺座」は明治二年(西暦1890年)に仙台に開場した様々な演芸を行う劇場で、歌舞伎も行われていたようですが、演説会や音楽会など伝統芸能から当時の水準で先端的な演芸も行われていたようです。
現在で言うところのTSUTAYA 仙台駅前店(南町通)の後ろにあったようです。
こんな感じです。
かつての仙臺座は、最近できた某ホテルと某スターバックスになってます。跡形もないですね。
話を戻します。国分町の「歌舞伎座」は「仙臺座」に比べ、収容人数も大変近代的で、開場以降は仙台座より利用されたとのことです。ただ、上記の柴田量平『仙台・東一番丁物語』でも歌舞伎座の場所までは載っていません。
次に地図にあたります。ベストセラーにもなった風の時編集部『100年前の仙台を歩く-仙台地図さんぽ』を参照します。
上記は西公園界隈の大正元年(1912)の地図の一部です。
しかし、それらしい表記は見当たりません。歌舞伎座は元々すでに前年に開場した開明座を改築したものですが、そういった記述も見当たりません。
もう一つ少しだけ新しい地図を見てみます。以下、昭和三年(西暦1928年)発行の地図の一部を見てみましょう。
(2枚目は当該箇所。赤囲いは筆者。)
!!!!現在の元鍛冶公園の後ろの位置に「開明座」という表記があります!
すでに屋号は「歌舞伎座」のはずですが、おそらく地図での表記は以前「開明座」だったみたいですね。住所としては「国分町2丁目39」となりますが、現在この住所は区画整理で存在しません。
ただ、場所はほぼ特定できました。今の元鍛冶公園の真後ろに歌舞伎座が所在していたようです。それではそこに行ってみます!
※ちなみに、今の住所だと国分町2丁目9-6にあたるようです。
あったぞ!歌舞伎座の跡地!
結論から言うと、以前仙台の歌舞伎座があった場所には「ナイタービル」と言う国分町でも有名なパブやスナックなどが入ったビルが建っていました。ここで仙台歌舞伎座の当時の位置の特定に成功しました!
仙台の「歌舞伎座」を感じさせる遺構などは残っていませんが、国分町のど真ん中に仙台歌舞伎座が位置していたということです。調べた限り、笠原信男『明治18年・藩祖政宗二百五十年祭の雀踊り』(2020)によると歌舞伎座が消失したのは戦災のためのようです。
まとめ&執筆コラム
歴史及び街並みは上書きかなと筆者は考えています。それが人の歩みで、町の歩みです。
以前あったものは誰かの記憶で息づいて、最終的にはこんな風に物好きに発見されなければ、昔発行された行政文書のたった1行「仙台歌舞伎座があった」と書かれて終わりです。誰もそれが具体的にどこにあったのか考える由もありません。おそらくこの歌舞伎座に通った仙台市民で、現在ご存命の方を探すのが大変なくらいかもしれません。
街並みはハードで、記憶はソフトです。前者は有形に変化し、後者は無形に変化します。ソフトとしての記憶はそれが機能しているうちは、復元及び再現性があり、つまり、本人が思い出せばいつでも当人もあの日のあの場所に戻れるでしょう。ただ、街並みが変われば以前そこにあったものは有無を言わず跡形も無く全く異なるものになります。そして、復元可能性、再現性は皆無です。
しかし、私はそんな街並みを、かつてあった景色を再発見していきたいのです。
今回はかつて仙台にあったとされる歌舞伎座の位置を特定しました。また次回!
【参考文献】
『100年前の仙台を歩く-仙台地図さんぽ』(風の時編集部)
『1928(昭和3)年仙台市全図』(風の時編集部)
柴田量平『仙台・東一番丁物語』 1944 珊瑚
笠原信男『明治18年・藩祖政宗二百五十年祭の雀踊り』2020 東北歴史博物館
最終閲覧日2022年7月6日 https://www.thm.pref.miyagi.jp/wp-content/uploads/2020/05/SKM_654e20072617220.pdf
執筆:ShimMyan