【12月12日(金)~フォーラム仙台で上映】ドキュメンタリー映画『ふたりのまま』レビュー

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2025年12月12日(金)~フォーラム仙台で上映『ふたりのまま』先行レビュー

フォーラム仙台で2025年12月12日(金)から18日(木)まで公開予定の映画『ふたりのまま』は、子どもを望む、もしくは現在子育て中である4組のカップルが選び取ってきた「家族」の形をリアルに取材したドキュメンタリーだ。この度事前試写のお話をいただき、フォーラム仙台での公開に先駆けて鑑賞させていただいた。

 


 

LGBTQ+当事者の暮らしに取材した映画を紹介する立場として、蛇足かもしれないが筆者のセクシュアリティについても軽く紹介させてほしい。
私は同性とも異性とも交際したことがある。カテゴライズするならバイセクシュアルということになるだろう。隠しているわけではないものの、積極的に開示しているわけでもない。両親を含む身内にカミングアウトはしていないが、それはそもそも家族と恋愛に関する話をすることに抵抗があるのが大きな要因である。ただでさえ億劫なのに、ましてや「同性と交際している」なんてややこしいことを──これが「ややこしいこと」になること自体にも全く納得はいっていないのだが──話すのが面倒だった。生涯を共にしたいと感じる同性のパートナーがいたら、重い腰を上げて身内にも紹介していたと思う。
そして子どもに関して言えば、欲しいと感じたことはない。親になる自信が全く持てないからだ。この世に生まれてくる全ての子どもに幸せに生きてほしいと心から思うが、自分のもとに生まれる子どもが幸福になれるとはとても思えなかった。産む気がないので、いわゆる女性としてのタイムリミットを意識したこともなく、現在も独身である。祖母は「女性は結婚・出産をして初めて一人前になる」という価値観を持つ女性だが、その理屈で言えば私はおそらく一生半人前だろう。

LGBTQ+当事者のひとりとして同性カップルを取り巻く結婚・出産の問題に常に関心は持っているが、上記の理由から自分ごととして捉えられるほどではなかった。立場としては、結婚を望む全てのカップルが結婚できるようになるべきだし、子どもを望む全てのカップルが必要なサポートや治療を受けられるようになるといい、と思っている。しかし自分の周囲に結婚や子どもを望む同性のカップルがいなかったこともあり、その苦悩や苦労、トラブル、不安などについてリアリティを持って考えられたことはなかったようにも感じる。

『ふたりのまま』を観てまず感じたのは、子を持つ/望む両親の苦悩の大半に性別は関係ないのではないか、ということだ。

©一般社団法人こどまっぷ

女性カップルならではの悩みももちろんある。子どもを持つために精子の提供が必要であることはその最たるものだし、正式な婚姻関係を結ぶことができず、異性どうしの夫婦と同じサポートを受けられないこともある。現在の日本において男女の夫婦(事実婚関係も含む)であれば保険適用で不妊治療を受けられるが、同性のカップルは夫婦として認められず、保険適用の対象外となる。また、医療機関に受け入れてもらえないケースも少なくない。同性のカップルである以上どちらかは子どもと血縁関係を持てないので、「血のつながりがない子どもを愛せるのか」という問いに直面することも男女のカップルより多いかもしれない。

作中では、こういった同性ならではの悩みについてももちろん取り上げられている。鑑賞する側としてもある程度想像し得る内容だ(想像もつかない、という方はもう少しLGBTQ+コミュニティに関心を持ってほしい)。
だが、『ふたりのまま』ではどんなカップルにおいても普遍的に発生し得る問題についても同じような温度感で取り上げている。
子を持つ夫婦の多くが、赤ちゃんが生まれた後にパートナーと家事・育児の分担について喧嘩をしたことがあるだろう。これからの人生を共に歩みたいと感じるパートナーに子どもがいて、自分自身も突然「親」の立場になることに戸惑いを覚えた経験がある人だって少なくないはずだ。

©一般社団法人こどまっぷ

異性だろうが同性だろうが、人の親になるカップルは性別に関わらず苦悩し、戸惑い、子どもと一緒に成長していくのだろう。
身近にクィアがいない(オープンにしている人と接することがない)環境で暮らしていた人も、今この日本という同じ国で生活する彼女たちの姿を観れば自分たちと何ら変わりない一市民であると実感できると思う。彼女たちは確かに、あなたが暮らす社会を構成するひとりの人間であり、彼女たちの家庭はこの国を支える多くの家族のうちのひとつだ。

作中には、レズビアンカップルのもとに生まれた16歳の少女が登場する。
家族構成は、彼女とその母親、そしてそのパートナーである女性だ。ふたりは自分の親ではあるが、ふたりの「母親」とは思っていないという。もちろん父親代わりと思っているわけでもないだろう。母のパートナーである女性は、母でも父でもないが彼女にとっては確かに家族であり、親なのだ。「父」「母」という規範に縛られない自由な家族の形がごく自然に成立していることは、多くのクィアカップルにとっての希望になるだろうと強く感じた。

その一方で、彼女たちを取材する本作の監督がつぶやく言葉もまた象徴的なものである。ボーイフレンドについて楽しそうに話してくれる16歳の少女を見て、長村さと子監督は「完全なノンケ(異性愛者)じゃん」と言う。
この言葉は「同性カップルに育てられた子どもはゲイやレズビアンになってしまう」という言説に対するカウンターだ。同性婚や同性カップルが子どもを持つことに反対する人の中には、同性カップルが親になると両親の性的指向が子どもにも影響を与え、次世代もまた同性愛者として育ち、最終的に誰も子どもを産まない(産めない)社会になってしまうのではないかと考えている人がいる。だからこそ監督は、レズビアンカップルに育てられた少女が異性愛者である、と笑顔で話しているのだ。やっぱり両親の性的指向は子どもに影響していないじゃないか、と。

©一般社団法人こどまっぷ

この一幕は、本作のどのシーンよりもLGBTQ+当事者たちが受けてきた差別の悲しさを象徴している、と思う。
本当は、同性愛者に育てられた子どもがまた同性愛者になったって、別に問題ないはずなのだ。異性愛者と同性愛者の違いは恋愛対象が異性か同性かという点のみで、その立場に上下はない。対等な存在であり、どちらも同じ社会の中で暮らしている。マイノリティとして世界的に差別されてきた歴史があり、今もまだ完全に差別がなくなったとはとても言えないが、それでも少しずつ状況はよくなりつつある(と信じたい)。
この世界に新しく生まれてくる子どもが異性愛者であろうと同性愛者であろうと、本当ならどちらでも構わないのだ。同性愛者に育てられた子どもがまた同性愛者になるという同性愛者の再生産が本当に起こり得るとして、それに何の問題があるのだろうか。問題は、同性カップルであるというだけで子どもを持つハードルが高くなる社会の方にある。誰も子どもを産まない社会になると危惧する人々は、なぜか、子どもが欲しいと強く願うカップルを社会から排斥しようとしている。

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経済的・心理的な理由をはじめ様々な要因から子どもを持たない選択をする夫婦が増えている社会にあって、同性のカップルが子どもを持つために乗り越えなければならない障壁はさらに多い。
知人や友人を頼り精子の提供を受けて、スムーズに出産できたならまだいい方だと言えるのかもしれない。長期間不妊治療を受け続ける必要があるレズビアンカップルにとって、保険適用外の医療費負担はあまりに大きい。もし治療が実って子どもを授かったとしても、今度は当然ながら育児に多額の費用がかかる。実家のサポートなどがあればまた別だが、基本的には仕事をやめるわけにも長期間休むわけにもいかないだろう。
男女の夫婦と違い、「結婚」ができないことも大きなネックとなる。社会的に夫婦として認められていないので、勤め先の会社が用意している産休や育休等の制度を使うことが難しいのだ。

作中では、長年不妊治療を続けているレズビアンカップルも登場する。同性のパートナーと暮らすことと子どもが欲しいと願う気持ちをごく自然に両立させている女性と、未だ戸惑いや不安の方が大きそうな女性とのカップルだ。子どもが生まれたら育児のサポートをしてほしいと言うパートナーに、勤め先でカミングアウトもしていないのにどうやって休めばいいのか、と返すやり取りは見ているこちらがいたたまれなくなるほどのリアルさである。子どもを授かることを目指して不妊治療を続ける間、同じようなやり取りを何度も繰り返しているのだという。

男女の夫婦であれば、結婚をはじめとした夫婦間の出来事について職場に共有することにさほど抵抗はないだろう。妻の妊娠・出産に合わせて、夫が会社の制度を利用し長期の休暇を取得することもできる(制度としては用意されていても全体の空気感的に利用しにくいこともしばしばある、という問題は今は一旦横に置いておくとして)。同性のカップルであるというだけで、職場でもパートナーがいると公にできない、そもそも夫婦ではないので産休・育休取得の対象者にならない、周囲の理解も(男女の夫婦以上に)得られにくい……など、多数の問題が表面化する。ふたりで穏やかに暮らしていくことは十分に可能でも、子どもを持とうとすると途端に難易度が上がることがよくわかる。

彼女たちが繰り返している上述のやり取りは、そもそも同性愛者が差別されている現状がなければ起こらなかったかもしれない。同性どうしでも結婚ができ、正式に夫婦として認められる社会であれば、職場での理解も得やすいだろう。子どもが産まれるとなれば当たり前の権利として産休や育休を取得できるし、職場に復帰した後だって、子どもの突然の体調不良を理由に遅刻や早退、欠勤を申し出ることができるだろう。
社会的に差別されているがために愛し合うカップルの間で喧嘩が増えてしまうのは、ひどくやるせないことだ。

©一般社団法人こどまっぷ

昨今、セクシャルマイノリティに対する寛容さは(おそらく若年層を中心に)広がりつつある、と感じている。もちろん未だに根強い差別はあるし、互いに理解しきれていない部分もあるだろう。そもそも、ゲイやレズビアンとバイセクシュアルの間にも多少の溝があったりなかったりするのだ。完全に理解し合うことは難しいし衝突することだってたくさんある。だがそれはそれとして、そういった属性の人々を受け入れる気はある、という人が増えているように思う。ウラロジ仙台の読者にも、友人や知人にクィアがいるという人は多いのではないだろうか。というかまず私がそうだから、読者の皆様はすでにひとりのクィアをご存じであるということになる。いつもお世話になっております。
もしよかったら、そこからもう一歩だけ踏み込んでみてほしい。「社会にクィアたちがいても別に気にしないよ」という姿勢でいてくれるだけでも本当にありがたいのだけれど、皆さんの隣人であるところの同性愛者たち、数多のクィアたちがどんな状況を生き抜いてきたか、これから生きていく必要があるのかに思いを馳せてみてほしいのだ。

レズビアンカップルの友人に精子を提供したカナダ人のゲイ男性は、自分と彼女たちとの間に生まれた子どもはいつかいじめられるだろう、と言う。レズビアンカップルと暮らす子どもであり、さらにカナダ人と日本人とのハーフというマイノリティであるその子は、学校できっといじめに遭うだろう、と。
その子は、この映画を観る人、この文章を読んでいる人、この社会にいる全ての人の隣人である。あなたのクラスメイトであり、職場の同僚であり、親戚であり、電車で偶然隣り合わせた人でもある。

助けてあげてほしい、とは言わない。ただ想像してみてほしい。そういう人々があなたと同じ国で暮らしていること、すぐ隣にいて、あなたの与り知らない苦しみを抱えているかもしれないこと。社会が変われば、その苦しみの大半が軽減されるだろうということ。
そしてそのために必要な社会の変化は、あなたの今の暮らしや権利を、ほんの少しも害するものではないということ。

©一般社団法人こどまっぷ

 

ありのままの姿を見せてくれた4組のカップルとその家族の皆様を、心から尊敬します。

 

執筆:編集S

『ふたりのまま』上映情報

監督:長村さと子
編集:内田尭/長村さと子
上映時間:88分

フォーラム仙台上映期間12月12日(金)〜18日(木)予定

『ふたりのまま』長村さと子監督 舞台挨拶/トーク付き上映スケジュール

■ 日時:
① 12月12日(金) 14:00~ 上映後 舞台挨拶
② 12月13日(土) 14:00~ 上映後 トーク

■ 会場:フォーラム仙台

■ 登壇予定:

① 長村さと子監督
② 長村さと子監督、加藤麻衣さん

■ 鑑賞料金:通常料金

※各種無料クーポンはご利用いただけません

引用:https://forum-movie.net/sendai/news/35663